古町神明宮は、天照大御神と豊受大神を主神として祀る神社で、天正19年(1591)4月28日、上杉家より米4斗7升2合、社地2000坪の寄進と共に、直江山城守兼続より真筆の「高天ヶ原」の額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が古町神明宮の神職として任命されましたという由緒を持ちます。
また、古町神明宮に合祀されている船江神社は、御祭神は猿田彦大神と大彦命です。船江神社は、1700年以上の歴史があり、『延喜式』神名帳(延長5年927年)に式内社としても名を連ねています。
この二つの神社は、安政5年(1858)社殿を再築した際に合祀され、「船江大神宮」の社号を賜りました。
このような長い歴史の中で、今も尚新潟で最も古い神社として尊崇されております。
古町神明宮は、伊勢神宮(内宮)のご祭神である天照大御神を主神として祀る神社で創立は不詳です。古来伊勢神宮では皇室・国家に関わる祈願のみが行われてきましたが、中世以降、御師の活躍により民衆との結びつきが深まり、各地で寄進された神領において天照大御神をお祀りする小祠が設けられました。これが古町神明宮の始まりといわれています。
古町神明宮は、天正19年(1591)4月28日、上杉家より米4斗7升2合、社地2000坪の寄進と共に、直江山城守兼続より真筆の「高天ヶ原」の額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が古町神明宮の神職として任命されました。この黒印書により、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されていたという由緒を持ちます。
一方、古町神明宮に合祀されている船江神社は、1700年以上の歴史がある古典にも名を残す神社です。起源は、祟神天皇10年6月(西暦240ころ)、この里がまだ貝操といわれていた頃ある日に遡ります。
浜にそれまで見たこともない形の一隻の船が流れ着きました。中には白髪の老人が座っていて、船を取り囲んだ村人たちに、「私は、猿田彦大神といいます。この里を守護するように遣わされました。これにより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。村人たちは、これに驚きながらも大変喜び、この船魂「猿田彦大神」をお祀りするため早速お社を建立しました。この時の船が新潟の起源とされ、地名も船得郷と改められました。後に「得」が「江」に転じて、この神社を船江大神と崇められるようになりました。
船江神社の御祭神には、建立時から、祟神天皇が地方征討のために派遣した四道将軍のお一人、「大彦命」もお祀りしています。大彦命は、『日本書記』や『古事記』にも名を残す神様で、『温故の栞』(天明4年1784年)は、船江大神を大彦命を祀る北陸道の人々の崇敬すべき神社と評しています。
また、船江神社は、『延喜式』神明帳(延長5年927年)に式内社としても記載されています。式内社とは官社のことで、神祇官から官幣をいただいていました。
この古町神明宮と船江神社は、天正年間(1573~1591)まで、ともに各々が境内を持つ独立した二つの神社でした。明暦年間(1655~1658)以降、同じ境内地内に、それぞれのお社が並列して建てられました。元禄年間(1688~1703)から船江大神宮と称されるようになり、文政6年(1823)2月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統括する吉田家より「船江神社」の社号を賜りました。その後、安政5年(1858)社殿を再築した際二つの神社が合祀され、「船江大神宮」の社号を賜りました。
明治元年には村社に列し、同5年3月、新潟総鎮守として全市民の氏子札を届けてあります新潟縣初代縣令正3位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、また、昭和2年には、第25・28代内閣総理大臣若槻禮次郎より社名石柱が奉納されました。
このような長い歴史の中で、今も尚新潟で最も古い神社として尊崇されております。
古町神明宮
●天照大神(あまてらすおおかみ)
伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が、黄泉(よみ)の国の穢を祓うための禊(みそぎ)で、お生みになった三貴子(天照大神・月読神つきよみのかみ・建速須佐之男神たけはやすさのをのかみ)のお一人で、伊邪那岐大神は天照大神に「汝が命は高天原を知らせ」といわれました。すべての命をはぐくむ「日の神様」です。
●豊受大神(とようけのおおかみ)
伊勢神宮(外宮)のご祭神である豊受大神も御祭神です。お米をはじめとして私共に欠くことのできない「衣・食・住の守護神」です。
船江神社
●猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
古事記によると「天の八衛(やちまた)に居て、上は高天原を光(てら)し、下は葦原中国を光す神」として登場しています。これは天孫降臨のときに、天孫の一行にその行く手を教え導いた功績を賞め称えたものです。これから大きな意味では「国の行く先を示す神様」、身近な意味では道の守り神として「悪いものを防ぎ、よき道(方向)への導きの神様(開運・交通安全)」です。猿田彦大神の信仰は道祖神(どうそしん)、塞の神(さいのかみ 幸の神)の名でも行われています。
当神社では、神社縁起から産土神として「港の守り神」「船(進水・航海)の守り神」「漁業の神」「水の神」「防火・消防の神」の御神徳をいただいております。
●大彦命(おおひこのみこと)
祟神天皇が地方征討のため、四道(北陸・東海・西道・丹波)に派遣された四道将軍(しどうしょうぐん)のお一人として北陸道を平定された神様です。「北陸地方全域の産土神」であり、「交通安全」「諸事解決・平定」の神様です。
八幡宮(はちまんぐう)
九州宇佐八幡宮が本宮で、応神天皇を御祭神としてお祀りしています。
八幡信仰のひとつの面から、源氏の氏神であります応神天皇の武神としての「弓矢の神」
「鍛冶神」の御神徳による「武芸上達」、刀鍛冶・刀剣研磨に携わる人をはじめとして製鉄業関係者の「鋼の守護神」として信仰されています。
八幡信仰のもうひとつの面では、応神天皇・神功皇后は共に、大陸交渉に伴って、大陸の文化を我が国に輸入し、日本の文化興隆をはかられた御神徳により「学業成就」・「合格祈願」を、また応神天皇は神功皇后の御子で、両神は母と子の関係であり、母が子を抱きかかえて大切にし、自分の御子神(応神天皇)を自分の替わりとして、この世に下されたことからの「母子神(ははこがみ)信仰」が起こり、「家内安全」「家庭円満」「家名隆昇」「子宝神」と崇められています。
白鳥神社(はくちょうじんじゃ)
白鳥神社は、白鳥神社建立奉賛会によって、平成25年12月に建立されました。
古町神明宮ではアルビレックス関係のスポーツチームの必勝祈願祭を創設から承っております。今ではサッカーのアルビレックス新潟を皮切りに9つのチームが新潟を拠点に活動しています。そこでサポーターをはじめ新潟に暮らす方々の願いを一つに集め、さらに大きな力にしようと、すべての「アルビレックス」の成功と躍進を祈願するお社として、建立されました。大彦命(おおひこのみこと)・雨手力男神(あめのたぢからおのかみ)を御祭神としてお祀りしています。
扇垂木(おうぎたるき)
社殿の大きな特徴として垂木があります。拝殿(はいでん)中央から垂木が放射線状にのびており、大変珍しい建築様式となっております。
拝殿内に以下の扁額が飾られています。(※一部非公開)
船絵馬(ふなえま)
一般的に絵馬は、馬の絵や十二支が描かれていますが、この船絵馬は船の縮尺模型が板の上に作られたものや、板の上に直接絵の具で描かれたものなどがあります。当神社には湊町新潟の、また神社縁起にふさわしい船絵馬が大切に保管されています。
和歌扁額
天領初代新潟奉行 川村修就真筆の和歌が、弊殿に掛けてあります。
※川村修就(かわむらながかた):長岡藩の領地であった新潟港が収公され天領となり、その初代新潟奉行として任命される。天保14年(1843年)~嘉永5年(1852年)まで新潟奉行の役目を務めた。
風俗図
●菅野縉斎(すがのしんさい):仙台藩絵師。
狩野派の絵師に学んだのち御用絵師として活躍しただけでなく、自ら開いた画塾には数百人の門弟がいたとされ、その画塾から有名な弟子も輩出している。
雨龍飛来図
●牧野忠精(まきのただきよ):越後長岡藩の第9代藩主。
老中を務めた、寛政の遺老の一人。治水など藩の民政にも力をいれた。
騎馬図
●五十嵐元誠(いがらしげんせい):江戸時代中期の新潟の絵師。
父(五十嵐浚明)から画法を学び、山水画を得意とする。のち江戸に出て技を磨いた。
鶏図
●五十嵐浚明(いがらししゅんめい):江戸時代中期の新潟の絵師。
漢詩人江戸で狩野良信に画を学ぶ。同郷の竹内式部から儒学の教えを受け、広く文人と関わり、書にも優れていた。
芭蕉の句碑
松尾芭蕉の「泊船集 付録」におさめられた名句「海に降る 雨や恋しき うき身宿」を、安政4年(1857)に地元の俳句会「柳々舎」から献碑されたものです。